横浜地方裁判所 昭和57年(ワ)2382号 判決
以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。
【説明】
「一 請求の原因
訴外神保修(以下「修」という。)は、昭和五七年一月一四日、原告静男の所有する神奈川県綾瀬市綾西一丁目所在家屋番号一八〇二番一五の家屋に放火し右家屋及び原告らの所有している家財道具一切を焼失せしめた。」
「被告の責任の原因は次のとおりである。
(一) (相続)
(1) 修は被告の実子であり、昭和五〇年一〇月一三日原告靖子と婚姻し、同日、靖子の両親である原告静男及び原告美代子と養子縁組をし、同日婚姻届、養子縁組届のいずれをも了した。」
「三 抗弁
1 (相続放棄)
(一) 被告は、昭和五七年一二月三日、横浜家庭裁判所に対し相続放棄の申述の受理申立をし、同家庭裁判所は昭和五八年一月三一日これを受理した。
(二) 被告は、農業に専念し法律問題には疎く、修と靖子の間に子がない場合には自己が相続人となること及び相続財産に積極財産がなくとも債務のみの相続があることには気づかないでいたところ、昭和五七年一〇月二日頃本件訴状の送達を受け、初めて修の債務につき自己が相続したことを知つたのであるから、右(一)の相続放棄申述は法定の期間内にされたものとして有効である。」
【判旨】
一原告ら主張日時に原告ら所有の家屋、家財が焼失したことは当事者間に争いがなく、<証拠>によれば、(一)靖子、修夫婦は、右日時に至る相当前から折合いが悪く、その余の原告らも修を快からず思つていたうえ、同年同月一三日、靖子は横浜家庭裁判所に対し、夫修との離婚の調停を申立て、その旨修にも告げたこと、(二)修は原告らとの折合が悪く、靖子からの離婚調停を申立がされた経緯について深く思い悩んでいたこと、(三)右家屋の二階には原告静男、同美代子、同久美子が、一階には原告靖子と修が居住し、同日未明出火当時もその位置で各人が就寝したが、鎮火後修のみが焼死体で発見されたこと、(四)原告ら方の物置に保管されてあるはずの灯油用ポリ容器が一階室内に持ち込まれており、炎上中修は「ざまあみやがれ。」と言葉を発したことの各事実が認められ、右事実によれば、修が火を放つた事実を推認しうる。
二請求原因事実3(一)の事実は、当事者間に争いがない。
三そこで、被告の相続放棄の抗弁について判断する。
1 抗弁事実1(一)の事実は、当事者間に争いがない。
2 <証拠>を総合すると、
(一) 被告は、昭和五七年一月一四日、原告靖子から、修が死亡した旨の電話連絡を受けたが、その原因が何であるかについては原告靖子から特に説明がなかつた。
(二) 被告は、当時妻を亡くして日が浅く、かつ高齢であつたため、訴外永田穂並(被告の妻の兄)、同谷口克美(被告の子)らに対し葬儀に出席するようにたのんだ。
(三) 同年一月一六日、葬儀が終わつたあとで、原告らは、永田穂並、谷口克美らに、出火の原因が修の放火であると疑われる旨を報じる新聞を見せ、損害は五〇〇〇万円と見積られるから、半分である二五〇〇万円を被告方で負担して貰いたいと要求し、併せて永田に強く迫つて、「此度修の死去に伴い神保様の御要望に答える可く努めます。」と記した書面を作成させ、その署名を得た。
(四) 被告は、谷口克美から、原告らの要求の報告を受けた。
(五) 同年一月二〇日、原告静男は、被告方から何の回答もないので立腹し、損害金として五〇〇〇万円を支払えと要求した。
(六) 被告は、修は郷里の宮崎県から遠方の神奈川県に養子に遣つたものであり、しかも被告の意向に反してそうなつたことでもあるから、一切谷口家との縁は切れていると考えていた。そして被告が修の遺産について語つたことは一度もなく、自己が修の遺産を継ぐ立場にあると考えていた形跡は全くない。
(七) そこで、同年三月原告靖子が谷口克美に損害金を支払つて貰いたいと電話で頼んだ折にも、同人は、被告方では支払う義務がないと考えていると答えた。
(八) 同年八月原告靖子は谷口克美に電話して、修が放火で書類送検されたと伝えた。
との各事実が認められ、これを左右するに足る証拠はなく、本件訴状が昭和五七年一〇月二日被告に送達され、同年一一月四日被告が本訴の追行を弁護士に委任したことは当裁判所に顕著である。
3 ところで、民法第九一五条第一項の「自己のために相続の開始があつたことを知つた時」とは、被相続人が死亡し相続が開始したことを知り、かつ、自己がその相続について相続人となつたことを知つた時を指すが、相続関係に複雑な事情が介在したり、遺産の内容が消極財産で占められ不明瞭であり、法定の期間内に相当な調査を遂げ、承認するか否かを判断するのに必要な合理的な認識に達することができなかつたことが止むを得ないと考えられるときは、いまだ、自己がその相続について相続人となつたことを知つたとは言えない。
これを本件について見ると、(一)修が放火をしたとの点については、被告に対し十分説得的な根拠が示されたわけではなく、(二)原告らの二五〇〇万円の請求も、損害の算定を明らかにした上でされたわけでなく、むしろ、養子の不始末について実方の責任を問うという外観のもとにされていると認められ、(三)客観的にも損害の半分を被告が負担すべき道理に欠け、いわば立腹の余りの法外の請求と受取られても止むを得ず、(四)原告らのうち三人までが、修の共同相続人である、との事情があり、必ずしも法律的素養に親しくない被告が、裁判所を介し訴状の送達を受けるという究極に至るまで、自己が修の相続人となるとは思い及ばなかつたとしても、やむを得ないことである。被告は、原告らから、再三にわたり金員の請求を受けたが、これも原告らの二五〇〇万円の要求の延長に過ぎず、被告の再考を促すきつかけとなるべきものとは認められない。
4 そうすると、被告の相続放棄の申述は、熟慮期間内になされていることになるから、本件相続放棄は有効となることが明らかであり、抗弁は理由がある。
(曽我大三郎)